武功夜話 7.「信長」と「吉乃の方」とのラブストーリー そして短い生涯

ページID 1004084  更新日 令和2年1月17日

印刷大きな文字で印刷

 吉乃の方の父は生駒家三代家宗(生駒氏文書による)です。彼女は土田弥平次に嫁ぎましたが、弥平次は明智合戦で戦死という悲運にあい、新婚の夢破れて兄の生駒家長が住む生駒屋敷に帰ってきました。そこで、信長に見初められてその室となり、信忠、信雄、徳姫を産みました。
 「信長公記」によると信長は天文17年(1548)に、美濃の国斎藤道三の娘の濃姫を正室に迎えたことになっていますが、「武功夜話」では弘治2年(1556)3月に輿入れしたとなっています。濃姫には子供がなく、没年もはっきりしていませんので、吉乃の方の存在は正室に代わるものでした。
 さて、こうした信長との結びつきは、美人であったことはもとより、信長は幼少から生活の中で母の愛情を受けることが少なく、吉乃の方のもつ母性愛を感じたに違いありません。加えて、生駒家の財力・武力も魅力のひとつであったものと想像できます。
 吉乃の方は永禄7年(1564)に小牧山の築城とともに小折から移りましたが、永禄9年(1566)5月13日に亡くなりました。冷酷非情の戦好きで、信じるのはただ自分だけと言われている信長を陰でささえた女性・吉乃。

写真:田代墓地


 吉乃は現・江南市の田代町において荼毘に付され「久庵桂昌大禅定尼」というおくり名がつけられています。この荼毘地は田代墓地(通称「大墓」といって、名鉄犬山線の西、一宮市千秋町との境近くにある)にあり、吉乃の方の墓石に「久庵桂昌大禅定尼葬地也 尾州丹羽郡小折村新野経塚」の文字を今でも読むことができます。
 吉乃の方が、精一杯信長につくした様子を表すように、春には彼岸桜(吉乃桜)がひっそりと咲く場所です。

写真:嫩桂山久昌寺


 落ち葉と風の音がこだまする小折町の嫩桂山(どんけいざん)久昌寺。戦国時代の風情をそのまま残すかのような静かな無人の寺は、生駒家の菩提寺で、嫩桂山の名は吉乃の方と信長が愛をはぐくんだ生駒屋敷に、嫩の桂二株があり、久しく昌えたことから名づけられました。久昌寺の西には当時の生駒氏の勢力を物語るようにりっぱな墓石が並んでいます。その中の一つに吉乃の方の墓もあります。
 信長は信雄に命じて、寺の香華料として五明村660石を与えたことからも、吉乃の方に寄せた愛情の深さを読みとることができます。

このページに関するお問い合わせ

教育部 生涯学習課
〒483-8701 愛知県江南市赤童子町大堀90
電話:0587-54-1111 ファクス:0587-56-5517
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。