武功夜話 5.信長の天下統一の足掛かりとなった「生駒屋敷」

ページID 1004082  更新日 令和2年1月17日

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写真:生駒屋敷跡の碑


 生駒氏は藤原氏の一族である藤原良房公の子孫で、大和の生駒郡谷口村で油や灰などを扱い馬借業を営んでいたといいます。応仁の乱(応仁元年1467)が起こり、京都を中心に東軍細川氏、西軍山名氏が11年にわたり争いました。この戦いで都はことごとく灰じんに帰し、奈良地方まで戦禍が及びました。
 生駒氏はその影響を受けて商売が不振になり、身辺の危険を感じて文明7~8年(1475~1476)ごろ前野氏を頼って、尾張の小折村に移住しました。移住してからは商売も繁盛し、この地方の豪族として大きな力を持ち生駒屋敷を構えるにいたりました。

写真:広間家の門


 小折城ともいわれる生駒屋敷は、久昌寺も取り込んで東西370m、南北540m、そして屋敷の周囲には堀が張り巡らされており広大な構えでありました。生駒屋敷の建造物として、当時のままの姿で残っているものに、市の文化財に指定されている「広間家の門」があります。
 尾張を統一し天下布武をもくろむ信長は、生駒氏の経済力と情報収集力(生駒氏は馬借業として販路を拡げ、三河以東に勢力を張っている今川氏の動向をキャッチしている)に着目し、生駒氏との関係を深くしていきました。

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